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山に咲く花に惹かれるのは何故だろう?

  • 投稿カテゴリー:自己啓発

安倍元総理が先日凶弾に倒れ亡くなりました。政治的、社会情勢的に思うところはいろいろありますが、改めて「人はいつどこで死ぬか分からない・・・」という漠然とした思いを持ちました。
そんな折、致知8月号で触れたコラムで腑に落ちることがありましたのご紹介します。

昨年4月から、特に変わった予定がなければほぼ毎週末どこかの山に登っています。ちょっと前までは登山なんて何が面白いんだろうと思っていましたが、年のせいか、すっかり登山の魅力にはまっています。笑
当初は山を登り降りるのに必死でしたが、最近体力がついてきて少し余裕が持てるようになったせいか、登山途中に咲いている花に目が向くようになりました。
ふと、今まで花にはあまり興味がなかったのに、山に咲く花に惹かれるのは何故だろう?と。
その答えの一つが致知8月号「連載 禅語に学ぶ88/山花開いて錦に似たり(横田南嶺)」にありました。

山花開いて錦に似たり(横田南嶺)

(一部抜粋はじめ)

「無常」とはどういうことであろうか。岩波書店の『仏教辞典』を調べると、「常でないこと、永続性をもたないこと」と端的に示されている。更に「苦、無我とならんで、仏教の伝統的な現実認識を示す」との解説がある。「ひとの生存をふくめ、この世でわれわれが目にするすべては移ろいゆくものであり、一瞬たりとも留まることがないということ」なのだ。

どれほどの速さで移り変わるかというと、仏教では「刹那滅」ということを説いている。すべての存在するものは、一刹那のみ存在して滅するのだということだ。刹那は、仏教で説く時間のことで「きわめて短い時間」、瞬間を言う。最も短い時間の単位である。

ブッダは、肉体は滅んでもその教えは真理として変わることはないと。その真理を人格化して「法身(ほっしん)」と呼ぶようになっていった。滅んだのは、肉体であって、法身は滅することはないというのだ。永遠なる真理を「法身」として、信じ、仰ぎ、修行に励む拠より所としていったのだ。

『碧巌録(へきがんろく)』の第82則にある話。

ある僧が大龍禅師に質問をした。しっかりとして変わることのない法身とはどのようなものでしょうかと。大龍禅師は答えた、山に咲いている花は錦のようだ、谷の水はまるで藍のように深く湛えていると。

大龍禅師の答えたものは、一見すると、もろくはかないもののように見える。咲いている花などは、数日もすれば散ってしまう。深く湛えた水も、大雨でも降れば洪水を起こすこともあろうし、逆に長く雨が降らなければ干上がってしまうこともあろう。変わることのない法身と問われてなぜこのようなもろくはかないものを答えたのであろうか。

ここに、ブッダの説いたすべては無常であり変化し続けるという真理、自我という固定したものはないという真理が実によく現れている。確かに花はやがて萎んで散る。そして単独で成り立つものではない。日の光、大地の養分、水、空気、四季の風、いろんな原因と条件によってこそ、そこに一輪の花となって咲いているのだといえよう。

無常であり、明日どうなるか分からないからこそ、この花は今このひとときを精いっぱい咲いている。この一瞬(刹那)を精いっぱい咲いている姿にこそ、永遠のいのちである法身を観ることができるのではないか。

(一部抜粋おわり)

また、以前ブログで紹介した『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』の中で、「人生とは刹那」としていたことを思い出します。

人生とは連続する刹那

・人生とは連続する刹那。>われわれは「いま、ここ」にしか生きることが出来ない。
・目的地は存在しない。
・人生とは点の連続であり、連続する刹那。物語は必要無い。>今出来る事を真剣に丁寧にやっていく。
・目標などなくて良い。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンス。
・人生は常に完結している。

随処為主

出身高の盛岡三高の校訓「随処為主」
与えられた所で主体性を持って一生懸命やる。
この年になって、やっと「随処為主」の意味を咀嚼できる気がします。

先日登った早池峰山には「ハヤチネウスユキソウ」が、秋田駒ヶ岳には「コマクサ」が可憐に咲いていました。

山は、天気の良い日は気持ちいいのですが、一度荒れると生命の危機を感じるくらい暴力的な風雨にさらされたりします。そのような過酷な自然の中で、毎年決まった時期に可憐な花を咲かせる山の花達。

「明日どうなるか分からないからこそ、この花は今このひとときを精いっぱい咲いている。この一瞬を精いっぱい咲いている姿にこそ、永遠のいのちである法身を観ることができる」

山の花に「師」の姿を感じ、自然に魅了されるのではないでしょうか。
そんな山の花に、私もなりたい、と。
一瞬一瞬の「刹那」を一生懸命生きて、それを積み重ねていく。
振り返った時に、その意味付けがなされる。

それで、いいのではないか、と感じる今日この頃です。